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歴史

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小海物語

目次
松原湖周辺を美しく描いた回想記八ケ岳と富士山が喧嘩した?小海のくじら松原湖の七不思議白駒の池命名伝説(1話)(2話)野ざらしの鐘松原湖の竜お子安さん

小海の森の小人プティリッツァ

プティリッツァとは、小海の森に住んでいると言われる森の小人です。 300年以上生きていると言われる彼等は、現在の人間達が持っている感覚 (視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)の他に、彼等のもっとも嫌う利己エネルギー (自分だけ良ければと思う心)を敏感に察知する感覚を持っているため、 豊な自然環境とあたたかい心を持った人間の住む土地にしか生きられないと言われています。私達は小海町のこのすばらしい環境を末永く維持し、あたたかい心を伝えていくシンボルとして、プティリッツァを小海町のキャラクターにしています。

 

松原湖周辺を美しく描いた回想記
「のちの思いに」 辻邦生著・1999年日経新聞社発行の中に -アルカデアの夏- と題した一節がある。

「この丘を越えると、もう目の下が稻子村です」
「なんてきれいなところなの!」
リスちゃんは汗を拭くのも忘れて稲葉くんにむかって叫んだ。
「ああよかった。お気に召して。僕もここが日本で一番きれいなところだと信じているんです」

昭和30年代中ごろ、松原湖に長期滞在した時の、ひと夏の思い出を綴った回想記
「二度とかえらない青春の黄金時代を書き尽くした・・・」(佐保子夫人記)
この後(99年7月)、辻邦生は亡くなっている。

信州の大自然を愛した「辻邦生」

信州の持っていたあの素朴で静寂にみちた自然は少なくなっている。だが、それでもなお私の心を幸福感でみたのは、あの空の青さであることには変わりないのである。 -わが信州-より

昭和37,8年頃稻子にて「夏の砦」書き上げる

「夏の砦」を書き上げたのは、八ケ岳で過ごした最後の日々であった。午前中、さわやかな太陽の下で執筆にとりかかり、雄大な八ケ岳が夕日に赤く染まるのに胸を打たれながら夜を迎えた。古代的な夜の星空は私に生きる高揚 感を与えてくれた。それは決して容易な執筆ではなかったが、「書くこと」がいいようもない至福であることを、その夏、私は心底から味わった。 -日経新聞-より

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八ケ岳と富士山が喧嘩した?

大昔、見渡す限りの大平原に中、ひときは高くそびえ立つ二つの山がありました。富士山と八ケ岳です。
あるとき、富士山と八ケ岳は背の高さを競って喧嘩をはじめてしまいますが、一向に決着がつきません。
そこで、仲裁を頼まれた阿弥陀如来の提案で二つの山の頂上に桶を掛け渡し水を流すことに。
流された水は低いほうへと流れます。負けたのは富士山でした。大喜びする八ケ岳。
富士山はあまりの悔しさに桶で八ケ岳を打ちつけます。
すると八ケ岳の頂上は八つに砕け、富士山より低くなり、今の姿になってしまったということです。

八ケ岳の民話「山の背比べ」より

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小海のくじら

昔、越後の海に鯨の夫婦がいた。
好奇心おうせいなその夫婦はどこか違う所に住みたいと考えていた。
すると千曲川をさかのぼったところに「小海」というきれいな海があると聞いた。夫婦はそこを目指し川をさかのぼり始めた。
大きな流れがやがて狭くなり、浅くなり、夫婦は体をねじ曲げながら苦労してのぼりつめた。
しかし、一向に海らしきものは見あたらず、困った夫婦は近くをあるいていたお百姓さんにたずねた。
「この辺に小海という美しい海があると聞いてここまで来たんですが、そこはまだ遠いんですか?」
するとお百姓さんは笑いころげながらこう答えた。「そりゃ、ここいらの地名で海のことじゃねぇ!」
それを聞いた鯨の夫婦はしおしおと帰っていった。
信濃の民話「鯨の夫婦」より

 

松原湖の七不思議

1.浮木明神 うきみょうじん

松原湖弁天島の南に大きな浮き木があり、それはどこへ引いていっても必ず元の所へ戻ってくることから、里人は 神様の宿れるものとしてあがめていました。

2.御神渡 おみわたり

湖面が鏡のように氷の張っているときに限る現象。浮木明神の所から下社前の三本松に渡る位置で豊凶作がうらなえる。

3.小谺岩 こだまいわ

松原湖の東岩から約20mくらいの所に大岩礁があり、上に丸い岩がのせたようになっている。
これを、こだま岩といい湖水の減ったときに現れて見える。

4.屏風岩 びょうぶいわ

松原湖の南西すみ「うばのふところ」というところの水中に、びょうぶを立てたように切り立つ岩がある。
晴れた朝には水をすかして見るとよく見えるという。

5.神座遠の松 かざおのまつ

松原神社から御射山原へ行く途中の坂の上にあり、それは幹を広げ、鳳凰がつばさを広げたように見えることから鳳凰松とも呼ばれた。現在は枯れて4本の幹だけが残っている。

6.星見の松 ほしみのまつ

御射山原にあり、8月27日うまの刻にこの松の下から中天を見るといぬいの方向に昼でも星が見えるという。

7.もろはのすすき

葉の対生したすすきは、御射山原のどこかへ何時か生え、心の正しい神様の意にかなった人だけがさがし出せるという。

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白駒の池 1

むかし、佐久の麦草峠に、大きな屋敷をかまえて、長者がすんでいた。
長者は、たくさんの人びとをやとって、広い畑に作物をつくらせ、広い山林の手入れをさせていた。
そのやとっている一人の若者と、長者の一人娘が、いつの間にやら、深く愛し合うようになった。
「わたくし、あなたなしでは、いきていかれないわ」
「おれとても同じ、お前さんなしでは、いきていかれるもんか」

二人の仲を知った長者は、はげしくおこった。
「一人娘のお前が、やとわれ人と深い仲になるとは何事だ」
「やとわれ人のお前が、わしの一人娘に恋するとは、もってのほかじゃ」
おこりおこった長者は、若者を追いはらってしまった。
若者は、人里にはおれず、深い山の中へわけ入り、ゆくえをくらませてしまった。
娘はなげき、悲しみ、若者をさがしに山にはいろうとしたが、長者の目が光っていて、なかなか屋敷をぬけだせなかった。
苦しい、悲しい日が、幾日もつづいた。

ある秋の日、ついに娘は、長者の目をぬすんで、屋敷をでて山にわけ入った。
山は深く、広く、大木が生いしげっていて、昼でも暗く、道らしい道はなかった。
霧がたちこめ、ぶきみな鳥や獣が鳴いた。
「こんなさみしい山の中、あの人は、いったいどこにいるんだろう」
娘は若者にあいたいあまり、こわいのもわすれて、山の中をさがし歩いた。
夜は木こり小屋らしいところや岩かげで眠った。
「あの人はもう、この世にはいないのだろうか。あの世でもいい、あの人にあいたいわ」

幾日かすぎた、ある日の午後、娘は身も心もつかれはて、大木の根もとにくずれおれ、つい、うとうと眠ってしまった。
その眠っている間の夢の中で、娘は若者にあった。
「おれ、白駒の池の底深くで、あなたを思い、さびしくくらしている。あなたと結ばれますよう、ただただねがっています。」
「やっとあえたわ、もう別れ別れになるのはいや」
娘がそうさけんで、かけよろうとしたとき、目がさめ、若者の姿がかききえてしまった。
「ああ夢だったのか。悲しいわ、さびしいわ」

娘が、腰をのばして起きあがると、ふしぎなことに、木々の間をぬって、一頭の白い馬が、音もたてず、ただようように、近づいてくるではないか。

やがて、娘の前にきた白馬が、
「わたくしは、白駒の池の精。あなたのいとしい人は、わたくしの池の中の国でくらしています。あいたいでしょう。さあ、私の背にお乗りください。」
といい、娘に背を向けた。
「あの人にあえるのですか。あの人といっしょにすごせるのですか。おねがいします。」
娘が白馬の背にまたがると、白馬は、ただようように、木々の間をぬってすすんでいった。
やがて、行く手が明るくなったかと思うと、ゆたかに水をたたえた池がまっていた。
「この池がわたくしの池です。地底の国に居るいとしい人にあいたいのですね。いってもいいですね」
「はい、いいですとも---。ねがうところです。」
娘がすかさずそういうと、白馬は、しずかにみずぎわに近づき、音もたてずに、池のなかにへすいこまれていった。
白馬と娘をすいこんだ池は、何事もなかったかのように、青く清くしずかにすみわたっていた。

「続」ふるさと 佐久の民話 大日方寛(著)より   「檪」社発行

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白駒の池 2

八ケ岳山麓の中腹うっそうたる巨木が林立して夏でも肌寒さを覚える森林の中にぽつんと池がある。
昔八ケ岳高原に住んでいた、何不自由ない生活だったが子供に恵まれず夫婦は
ある時どうしても子供が欲しいと八ケ岳の神に祈願した。
ところが祈願が神に届いて間もなく懐胎玉のような女の子がうまれた。
この子が一人歩きするころは、ふとしたことから亡くなり父親の手で娘は美しく成人していった。
娘は気立がやさしく神様の申し子にふさわしい孝行娘として父親によくつくした。
やがて年頃になったころ老父が病気になり、心こめた看病にもかかわらず病気は益々悪くなるばかりだっつた。
ある日娘が看病につかれて、ウトウトしていると枕辺に二人の女神があらわれた。
そして、
「われは八ケ岳にまつられた山の神である。老父の命数はすでにつきているが孝心にめでしばらく寿命をのばす。
明早朝山ろくのある一面に淡黄色の花の咲くところをみつけて養生させるがよい。
しかし願が叶った時はそこに止まって多くの病苦になやむ人々の苦難を除くよう」と告げると夢がさめた。
早速娘は淡黄色の花を探しに出かけたが見つからず困っていると突然一頭の白駒があらわれあとをついて来いと言うそぶりをした。
あとをついて行くとやがて淡黄色をした湯花の一面に流れているところに出た。
そこで白駒は姿を消した。
ここに老父が入湯すると病気はたちまち全快したが娘は女神との誓いを守り病に苦しむ人々のためにいつまでも止まって守護神となる決心をし家に帰らなかった。
ここに又白駒があらわれ娘は白駒にまたがって池に入り池の主となった。
白駒は女神の化身であったという。
こうした伝説があって何時か白駒の池といわれるようになったがこの池の水に婦人が面を写すときっと池の主のような美しい姿になるという。

馬越(旧北牧村)嘉永6年万担帳より抜書

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のざらしの鐘

ここは信濃の国、佐久郡の落合と言う所の慈寿寺です。大きなお寺と共に、立派なつり鐘がありました。今から七百年ほど前の鎌倉時代末に作られ、世の平和を願って大井光長と言うお侍が寄進した釣り鐘です。戦国時代になり、甲斐国の武田氏が佐久に攻め入りました。そして、慈寿寺の住職に言います「住職、我々を一晩この寺に泊めてくれぬか」「それは出来ません。攻めてきた敵を一夜たりとも泊めることは出来ません」とお坊さんは断りました。「何、我々の頼みが聞けぬのか。ええーい、者ども、寺と回りの家々に火をはなて!燃やしてしまうのだ!」 こうして寺をはじめ、土地の人々の家も火に包まれてまったのです。「殿、大変立派なつり鐘がありますがどういたしましょう」「そうだな、佐久に攻めこんだ証として、我領地に持ち帰ろう」「は、承知いたしました」家来たちは、荷車に鐘を積み込み引きはじめました。「よーいしょ。よーいしょ。」「これは重いぞ。甲州まで運ぶのは大変だぞ。」「しかし殿のご命令だからだな。とにかく頑張るしかあるまい」「よーいしょ。よーいしょ。」やっとの思いで、松原村にある松原湖のほととりまで来たときのことです。「おや?何だか鐘がどんどん重くなってきたぞ」「よーいしょ。うーん。よーいしょ。」不思議なことに、鐘を乗せた荷車はとうとう動かなくなくなってしまいました。「困ったな。殿にお伺い致そう」」「そうだな、このままではどうしようもない」家来から知らせを受けた殿様は、「うーん、致し方ないな。すぐそばにわしが信仰している松原諏方神社がある。諏方神社に奉納いたそう」殿様をはじめ、家来たちは、これからの武運を祈って鐘を奉納しました。こうして、落合から運んできた鐘は松原諏方神社に置かれる事になったのです。ところが、松原村は以前よりたびたび火災があったようですが、えど時代になってからも大火がありました。「おーい火事だぞ!」「早くにげよう!」「こっちだ、こっちだ、こっちへにげろ!」村人たちは、子供から大人まで、着のみ着のままで逃げ回りました 神社も家も、その多くが焼けてしまったのです 大変な災害にあった松原村ですが、辛抱強く努力を惜しまない村人たちによって、村は立ち直り、松原諏方神社も再建されました そして鐘はというと、「なんだかこの鐘を大事にしまっておくと、火事がおきる気がするなあ」「うん、そうだな。寺に火をつけて奪ってきた鐘だからな。何か因縁を感じるなあ」 そして鐘は長い間、雨風があたる屋外に置かれたり、吊るされたりしていないため、いつの頃からか、「野ざらしの鐘」と、呼ばれるようになりました。

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松原湖の竜

これは今から八百年ほど昔、鎌倉時代のはじめの頃のおはなしだ。 鎌倉幕府の将軍、源頼朝は病の床に伏していた。 頼朝の病は、昨日よりも今日、朝よりも夕ろ、しだいに重くなっていくばかりだった。 どんな医者に診てもらっても、いっこうに良くならない。 そこで占い師にみてもらった。 「これは大変重い病でございます。どんな医者でも治すことはできません。でも私に名案がございます。竜の生き胆をお飲みになれば、ただちに治るはずでございます」 それを聞いた家来たちは、どこに行けば竜がいるのか分からず困っていた。 源頼朝の家来に畠山重忠という勇ましい武士がいた。 ある夜、重忠の夢の中に、上品な婦人が現れて告げた。 「私はあなたと昔からゆかりのある者です。お殿様の頼朝公のご病気を治すには、竜の生き胆が必要だと聞いております。そこであなたに、こっそり教えてあげましょう。信濃の国の松原という所に湖があり、そこには昔から竜が住んでいます。その竜の生き胆を取って頼朝公に差し上げなさい。それを飲めば、ご病気は必ず治ることでしょう。ただちにその湖に行きなさい」 と、言い終わったところで重忠は夢から覚めた。 夢のお告げがあった直後、重忠は竜の生き胆を取ってくるように命じられた。 不思議なめぐり会せだと思った重忠は、早速信濃の国の松原湖に出かけた。 ところが湖には竜の姿など見えない。 「困ったなー。どこに竜はいるのだ?」 重忠は、湖のほとりにある諏方神社に、三七、二十一日間、こもって祈った。 すると満願の二十一日目の夜中に、また上品な婦人が現れた。 「私は先日、あなたの夢の中で、この湖に住む竜の生き胆を取るように教えた者です。ここの竜は手強いので、簡単に打ち取ることはできません。そこでこの宝剣をあなたに差し上げます。これを使えば、竜の生き胆を取ることができるでしょう。」 宝剣を渡した婦人は、瞬く間に姿が見えなくなった。 夢ではなかった証拠に、重忠の手の中には、ずっしりとした宝剣があった。 翌日、夜が明けたかと思うと、 バシャン!バシャン!ガォーこの湖の主の竜が現れた。 「オー これこそ夢のお告げにあった竜だ!」 重忠は竜に向かって叫んだ。 「竜よ、おまえにはなんの恨みもない。しかし、殿様頼朝公の病気を治すために、おまえの生き胆をもらうぞ。覚悟しろー」 重忠は授かった宝剣を抜いて、さっと切り掛かった。 さすがに授かった宝剣の威力はすばらしかった。重忠は竜を倒して、生き胆をとり、それを大石の上に載せ、手を合わせた。 重忠は、早速、鎌倉に帰って、頼朝に竜の生き胆を届けた。 こうして頼朝の病は、すっかり治った。 殿様の病が治って安堵した重忠であったが、打ち取った竜が自分の母であることをしり、再び松原湖を訪れた。そして、「お蔭さまで頼朝様の病は治りました。本当にありがとうございました。」と、弁財天を祀り、母の墓を建てた。 頼朝もまた、感謝をして松原湖のほとりに三重の塔を建立した。 こうしてこの時以来、松原湖に竜はいなくなったと言う事だ。

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お子安さん

むかーし、昔のお話です。宿渡のある家に男の子が誕生しました。赤ん坊の親夫婦はもちろん、家族みんなの喜びようは大変なものでした。「そろそろ俺にだかせろや。」「こんどはおらの番だよ。」みんながかわいくて、かわいくてしかたありません。ところが、しばらくすると、子供の様子がおかしい事に気がつきました。「母ちゃん、この頃子供の元気がなくなってきたきがするが・・・」「おらもそんな気がするよ。お乳も飲まねえし、泣き声もちいせい気がする。」「なんとか しなくちゃな。」「まずはお宮やお寺にお願いしてみよう。」この時代は、なかなか医者にみてもらうことが出来なかったので、お宮や、お寺にお参りするのが一番だったようです。夫婦は宿渡にある神社お宮はもちろん、ご利益があると聞けばあちらの神社、こちらのお寺とお参りに行きました。そして、「どうか病気がなおりますように。」「どうか子供が丈夫に育ちますように。」と、お願いしてまわりました。そんなある日、集落の入り口の西の方に光を感じ、子供を抱いた母親の形をした岩が目にとまりました。そうだ、この岩に祈ってみよう。夫婦は子供と共にその岩の前で、一心に祈りました。「どうぞこの子が元気になりますように。」「どうぞうまれた時のように丈夫になりますように。」すると不思議や不思議、その岩から水らしきものが染み出してきました。母親はさっそくその水を子供の口に含ませました。「ほうら、これを飲んでみな。ゆっくりで良いから、すこーしずつでいいから。」母親が吸わせると、子供はうまそうに飲み始めました。「どうか元気になりますように。」夫婦はそう願いながら水を与えました。 話を聞いた村人たちは、「そんなにご利益があるなら我々もお参りしよう。」「ほかのみんなにも教えようじゃないか。」「うん、そりゃーいい。」「そうしよう、そうしよう。」この岩の話は、多くの人たちに伝わりました。そして村人たちは力を合わせてお堂を建てました。 こうして村人たちによって祀られた岩は「お子安さん」として信仰され、親しまれるようになりました。 底の抜けた柄杓を供えて祈れば子宝に恵まれ、母乳がたくさん出て赤子が丈夫に育ち、金巾の赤い布で小さい幟を作って厄除け難産よけの祈願をすればご利益があると言われ、昔は野沢方面からの参拝者も多かったという事です。

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